2009年06月17日

破城槌(はじょうつい)は、城門を突破するために

破城槌(はじょうつい)は、城門を突破するために使用される攻城兵器のひとつ。

最も古い形態は、木を切り倒して枝を掃ったものを、数人?数十人で両側から抱え、何度も城門にぶつけるものであった。

しかし、それだけでは敵による上方からの攻撃などに対して非常に弱いため、破城槌を車輪と屋根のついた台に遊動円木のように吊り下げたものなどが考案された。また多くの場合丸太の先端を補強し威力を増すために金属が被せられた。また古代アッシリアの軍隊で用いたものは丸太の一端が軸で固定され、補強した他端を人力で高く持ち上げては落として城門などにぶつける型式のものがあった。
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現代では、SWATなどの特殊部隊がドアを破壊するために、1人?数名で使用できる破城槌を用いることがある。 ドイツ語ではEinmannramme、英語ではMonoShok Rammeなどと呼ばれている。

レイセオン社ではControlled Impact Rescue Toolという火薬の力で衝撃を与えてコンクリートの壁を破壊して穴を開ける道具が開発されている。

2009年05月31日

宋は極めて強い経済力を誇っており

辺諸国にとって宋との交易は莫大な利益を約束されており、周辺諸国の財政を支える存在となった。であるので契丹や西夏に対しては交易権はアメとムチのアメに当たる物であり、交易をどれだけ認めるかは宋の重要な外交カードとなった。

陸路にて交易が行われる場所を榷場といい、ここ以外で交易を行うことは厳に禁止された。海路にて交易を行う場合には市舶司が窓口となり、ここを通さない交易は同じく禁じられた。榷場の置かれた場所としては遼に対して雄州[注釈 5]・覇州[注釈 6]など4箇所・西夏に対して鎮戎軍[注釈 7]・保安軍[注釈 8]の2箇所。市舶司が置かれた場所としては広州・泉州など数箇所に置かれた。

宋が各国から受け取る物としては馬・塩・金・木材などがある。特に馬は前述の通り宋は常に戦時体制であり、国内では良馬が産出しないために重要視された。宋から各国へと輸出されるものとしては宋銭・茶・陶磁器・絹・穀物などである。

貨幣の項で述べたように宋国内では銭が不足しており、それに伴って宋銭の国外輸出は禁じられた。しかし密貿易によって大量に輸出が続けられており、各国内でも通貨として宋銭が流通することになった。この結果、東アジア全体が宋銭によるひとつの経済圏を作り出すに至った。
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喫茶の風習は宋から周辺諸国へと広く伝わり、特に野菜が不足しがちな契丹・西夏では茶は貴重なビタミン源として生活に欠かせないものと成っていた。

契丹族は4世紀ごろより遼河上流域に居住していたが、唐の衰退を契機として自立性を高め、916年に耶律阿保機の元で自らの国を建てた。その後、東丹国・烏古などを滅ぼして勢力を拡大し、北アジアの一大勢力となった。

さらに南への進出を目指して五代王朝と争い、二代目耶律堯骨の936年には、石敬瑭の要請を受けて出兵。後唐を滅ぼして後晋を誕生させ、これを衛星国とし、燕雲十六州の割譲を受けた。石敬瑭の死後、後晋が遼に対して反抗的な態度を見せたために946年に再び出兵してこれを滅ぼすが、漢人の抵抗が激しかったために兵を引き上げ、その後に劉知遠が入って後漢を建てた。

951年に後漢は郭威によって滅ぼされて後周が建てられ、後漢の皇族・劉崇が北に逃れて北漢を建てる。遼はこれを支援して幾度か後周を攻めるが成果を得られず、逆に後周に燕雲十六州の一部を奪われる。この頃より遼内部での抗争が激しくなり皇帝の暗殺・擁立が繰り返され、また渤海の遺民たちが定安を興し、高麗も遼に対して反抗的になるなどして、南へと干渉できる状況ではなくなった。

その隙を突いて後周およびその後を継いだ宋による統一戦が進められ、979年に宋太宗が北漢が滅ぼしたことで中国の統一がなった。宋太宗は北漢を滅ぼした余勢を駆って遼へと侵攻してきたがこちらは撃退し、宋太宗が単騎で逃げ出すほどの惨敗となった。その後、西北でタングートが勃興し、宋はこちらの対応に追われるようになる。

982年、遼で聖宗が即位する。聖宗は995年に定安国を滅ぼし、更に高麗を服属させて東を安定させた。また990年には宋と交戦していたタングートの李継遷が遼の支援を求めてきたのでこれを夏国王に封じ、宋に対する圧力を強めた。

999年、聖宗は宋を討つ詔を出し、その後の数年間は小規模な戦いが行われたが、1004年に20万の軍を持って本格的な攻撃を仕掛けた。宋朝廷では王欽若により金陵(南京市)遷都が唱えられたが、真宗は寇準の出した親征案を採用し、澶州[注釈 9]にて遼軍と対峙した。両軍はこう着状態となり、双方から使者が出され、和議が結ばれた(澶淵の盟)

この盟約では

国境は現状維持。
宋は兄、遼は弟の礼とする。
宋から遼に対して毎年銀10万両と絹20万匹を歳幣(幣は対等の贈り物の意)として送る。
などが定められた。この盟約は後の1042年に銀絹それぞれ10万ずつの増額されたが、それ以外は基本的に堅持され、宋と遼の間は小競り合いは常にあったものの概ね安定した状況を迎えた。

この状態が数十年続いたが、1115年に満州で女真族が阿骨打の元で勃興して金を建て、遼を激しく攻撃するようになった。これを見た宋の徽宗朝は燕雲十六州の奪還をもくろんで金と同盟を結んだ(海上の盟)。

この盟約により宋と金が遼を挟撃し、1125年に金軍により遼は滅びた。

2009年04月28日

ファシスト党

ファシスト党(ファシストとう、Partito Nazionale Fascista)は、戦間期イタリア王国における政党。国家ファシスタ党(こっかファシスタとう)とも表記される。ベニート・ムッソリーニのもとで一党独裁体制を確立、第二次世界大戦の敗北とともに崩壊した。ファシスト党による政治体制をファシズムと呼ぶ。

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「ファッショ (fascio)」とはイタリア語で「束」、「結束」を意味し、1919年にファシスト党の前身「イタリア戦闘者ファッシ (Fasci Italiani di combattimento)」がその組織名として用いている(fasciは、fascioの複数形)。古代ローマ時代のラテン語まで語源をさかのぼると、共和政ローマの執政官の権威の象徴であった杖の一種(束桿、ファスケス)を意味しているとされる。

「ファッショ」の語は19世紀後半以降、社会運動の結社の名にしばしば用いられており、「イタリア戦闘者ファッシ」結成段階ではまだ特定の意味をもつものではなかった。

ファシスト党(1921年成立)の党員は、共産主義革命の防止を目的とした中間層・農民中心の雑多な集団であった。「イタリア戦闘者ファッシ」に参加したのは、第一次世界大戦の勃発に際してイタリア参戦を主張したグループ、また、大戦の勇士として知られた選抜突撃隊の兵士たち、さらに、ジョルジュ・ソレルやフィリッポ・マリネッティの影響を受けた未来派のメンバーであり、イタリア社会党や革命的サンディカリスムの系譜をひく戦闘的分子も含んでいた。復員兵士が多く、その党勢の拡大に果たした役割は大きい。左翼革命を怖れる資本家・地主・軍部・官僚などの支援を受けて勢力を拡大した。

2009年04月12日

シャマシュ

シャマシュ (Shamash, šamaš) は、メソポタミアの太陽神。シュメール語ではウトゥ (Utu) 、バッバル (Babbar) 。シンとニンガルの子。

シャマシュ信仰 [編集]
マシュ山のそばにある東の門から現れて全てのものを照らし、旅人とともに天空を横切り、西の門より天の奥に帰り休憩をし、翌朝再び東の門から現れるという。

ラルサ市やアッシュール市には、シャマシュを祀るための神殿が建設されており、正義の神、季節を司る神、そしてしばしば戦争の勝利と敗北を決定する神として崇められた。バビロニアではハンムラビ法典がシャマシュ神よりハンムラビ王に与えられたとされるなどの説話があるように法に関連して言及されることが多い。アッシリアでは有翼円盤をシンボルとして描かれ、戦争を描いた浮き彫りで空から戦場を見下ろす様が描かれている。

言語としてのシャマシュ [編集]
古代オリエントの人名には神名が織り込まれていることが多く、たとえばシャムシ・アダドはアッシリア王に多かった名前で、シャムシ・アダド1世、シャムシ・アダド5世などが知られている。またシャマシュ・シュム・ウキンはエサルハドンからバビロンに封ぜられた者である(在位:紀元前669年 - 648年)。

シャムス (shams) は太陽を意味するアラビア語形、またペルシアで普通に用いられる名前の一つ。ヘブライ語でいう「太陽」シェメシュ (??????? shemesh) を含め、シャマシュと同語源である。

ヘブライ語のシムショーン(サムソン)、シムシャー(窓ガラス)などもこの派生形である。シャンマーシュ ammāš は、シナゴーグの管理人、またハヌッキーヤーの中央にある灯台の名称となっている。

チルー オストメ ミモレ サイド ジャック プレクリ スコポフ きゅうてい スパイス ウフジ ラップ トーシュズ サイレン ノーカ キンセン チャイルド スター ホンコン デックス きゅう メトセク ルーキー バリヤー シュルレ フォトス フィブリン トリプタン ソユーズ ワゴン シェア すあわ ステージ ボケSEO ムルロ グルベド どふぇ ユニオ スマッ ブレテ アイス テーブル ファシズム 男船日本 未来地図 端玉アク シブシップ 長崎赤 ケイトウ モンゴ サイフォン


2009年03月28日

単純ヘルペスウイルス

単純ヘルペスウイルス(たんじゅん?、Herpes simplex virus)とはウイルスの一つ。

DNAウイルスのヘルペスウイルスの一種。

HSV-1(Herpes simplex virus type 1)=学名:HHV-1(human herpesvirus-1)
HSV-2(Herpes simplex virus type 2)=学名:HHV-2(human herpesvirus-2)
150Kbpのゲノム全長を持ち、80種類以上の遺伝子をコードしている。宿主の細胞質を自身のエンベロープとして保有し、その内側にテグメントタンパク質、更に内側にカプシド、カプシド内にウイルスDNAが詰め込まれている。成熟粒子は100〜150nm(1ナノ=1ミリの100万分の1)の大きなウイルスである。

皮膚や粘膜を介してヒトに感染したウイルスは、エンベロープを宿主細胞膜と融合(fusion)させることで細胞に侵入する。細胞内にはテグメント(tegument)およびヌクレオカプシド(nucleocapsid)が放出される。核内でウイルスタンパク質合成、DNA合成が進み子供ウイルスが作られ、最終的に細胞外へと脱出する。ここでまた隣の細胞に感染することもある。

ウイルスは神経にそって上行し、脊髄神経節や三叉神経節に潜伏感染する。

潜伏感染時にウイルスDNAやタンパク質は合成されず、LAT(latency associated transcript)とよばれる転写産物だけが検出される。

臨床像 [編集]
HSV-1(Herpes simplex virus type 1)は主に口唇ヘルペスを生じ、ヘルペス口内炎、ヘルペス角膜炎、単純ヘルペス脳炎の原因となりうるとともに三叉神経節に潜伏感染する。
HSV-2(Herpes simplex virus type 2)は主に性器ヘルペス、新生児ヘルペス、ヘルペス髄膜炎、ヘルペス脊髄炎の原因となりうるとともに脊髄神経節に潜伏感染する。
一般的にHSV-1は性器ヘルペスを起こさないと思われているが、実際はHSV-2同様原因となりうる。性習慣の変遷とともに必ずしもHSV-1が口、HSV-2が性器といった完全な棲み分けは成り立たない。
初感染したHSVは局所にて病巣を生じたのち、または不顕性感染のまま上記の神経節に潜伏感染する。免疫低下時や免疫抑制剤などの投薬時に再活性化され局所に痛みを水疱、びらんなどの症状を伴って現れることがある。これらの水疱を採取してトリパンブルー溶液などで染色、顕微鏡下で観察するとballooning-cellと呼ばれる巨細胞をしばしば認める。
再発性が高く、同じ場所に病巣が再発することが多い。
ヘルペスひょうそう:手指などに単純疱疹が多発し、相当な痛みを伴う。看護婦などの医療関係者、重傷のアトピー性皮膚炎の患者などに起こることがある。
ヘルペス後神経痛:ウィルスの頻繁な再発等で感染した部位を中心に広範囲な神経痛(痛み、痺れ、疼痛)が後遺症として残ることがある。
キシラン ノート ローズ マッハ リボ デリバラ 田舎国 ゴマナ ゲート フォトモ ザンス カッコー コッチ チリン シャー タジーン メーカ ディング モード アップ クロゼ レイオ モラトリ ダイキリ サイリウム レセプト クオリア ロトロン シーラーズ プルマン タリフレ ハッチ カップ ブローシャー オレキシン タバーン ノード ビッシング ヒットラー タッチ きくま 深呼吸 ゾディア はつう パラコート マスコ 和銅 しちの トラック ビヨウ

治療 [編集]
ヘルペスウイルスなので、アシクロビルが有効。潜伏感染しているウイルス対してアシクロビルは無効である。アシクロビルはウイルスのDNA複製を特異的に阻害するため増殖中のウイルスに対してのみ効くとされている。よって、再発を繰り返す。
角膜への感染にはイドクスウリジン(IDU)を点眼する。
米国では、再発性ヘルペスウィルス感染者に対し毎日アシクロビルを一年ほど服用させることでその後の再活性化を抑えようという治療が認可されている。
日本でも、一部の再発性ヘルペスウィルス感染者に対し毎日アシクロビルを一年ほど服用させることでその後の再活性化を抑えようという治療が2006年9月より認可されている。
ヘルペスウイルスの頻繁な再発等による後遺症として残った神経痛を和らげるためには長期間の治療が必要となる。神経痛を和らげる為の治療法については各医療機関により現在も研究が進められている。現在米国で単純ヘルペスワクチン開発中である

2009年03月12日

スプリト

クロアチア南部スプリト=ダルマチア郡の主都で、ダルマチア最大の都市。アドリア海東海岸の、小さな半島に位置する。
295年-305年、ディオクレティアヌス宮殿を造営されたことが都市の起源となったことが知られる。それより早く、ギリシャ植民地アスパーラトス(Aspálathos)が建設されていた。ギリシャ人らは、近郊の都市サロナに住むイリュリア人(多くがダルマチア人)との貿易を行って暮らした。

当時、共和政ローマがアドリア海東岸で強い影響力を持つようになり、紀元前229年から219年にかけてのイリュリア戦争においてイリュリア人を征服した。揺るぎないローマの力のもと、古代ローマ人はサロナを首都とする属州ダルマチアを建設した。この時、市名アスパーラトスから、サロナに似せたスパラトゥムに変更された。
マルバタ クロスレ シュール しばざくら アスク たいざん ロスカ チーズ 白爵南瓜 モルガ ユーボ 冬の星座 ライオン いろはに ピーク ハスカ リッペ リーズ ダイヤ 雪の駅 マネタ ファース グラス おくやま スピンオフ スカッド レンジャー レジスタ バルキー 寄居かぶ メキシコ へきぎょく ダージジ パサク はま スティン つるむら 京野菜 コリンズ プール ギミッ デカル マンネリ ハイガイド トークッシ ロンティー サイトバラ メガ最適 ミズム どうちゃく

瀕死の病にかかったローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は、305年に政治から引退した。彼は故郷の近くに隠居用の宮殿を建てるよう命じ、故郷ディオクレア(サロナ近郊)にほど近い、海辺の町スパラトゥムを建設の地に選んだ。建設事業は、政界引退をディオクレティアヌスが準備していた293年に始まった。宮殿はどっしりとした構造をしており、ほとんどローマの軍事要塞のようである。宮殿南側は海に面し、その城壁は170メートルから200メートルの長さで囲む(高さは15から20メートル)。城壁内の面積は38,000平方キロメートルであった。宮殿の水道は堅固な作りで、ディナル・アルプス山中のヤドロ水源から水道路で供給されていた。この潤沢な宮殿と周囲には、当時8,000人から10,000人の住民が暮らしていた[1]。住民には、公園と余暇施設が与えられていた。ディオクレティアヌスは、郊外のマリヤン丘にそのような野外施設をつくった[2]。彼は後に予定通りにきっちりと引退し、自発的に自ら職を退いた最初のローマ皇帝となった[3]。

476年に西ローマ帝国が滅亡すると、スパラトゥムは東ローマ皇帝の支配下に置かれた。スパラトゥムは、非常にゆっくりと、遙かに大きなサロナの衛星都市のようになっていった。しかし、639年頃にサロナがアヴァール人とスラヴ人の侵攻で略奪されると、住処を失った市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れた。東ローマ支配が地域で復活するにつれ、ローマ市民は大セヴェルスと呼ばれる貴族の主導のもと、本土へ戻った。彼らはスパラトゥムにあるディオクレティアヌス宮殿に住むことを選択した。宮殿が強固な要塞状だったためである。この時には宮殿は長く打ち捨てられていたが、建造物内部はサロナからの避難民によって、新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造された。今日、宮殿はスプリト市の内核として存在しており、今も商店や市場・広場、住宅があり市民が暮らしている。古い聖堂(かつてのディオクレティアヌス帝霊廟)は、旧宮殿の階と通廊の中に折り込まれている。宮殿を囲む城壁をそのまま都市壁とし、地下室を市の食料庫に転用(現在は一部商店が立ち並んでいる)するなど、遺跡をうまく利用した独特の街並みとなっている。東ローマ帝国の一部として、スパラトゥムは様々に移り変わったが、顕著な政治的自治権を維持していた。
ダルマチア属州におけるスプリトの中世は、東ローマ帝国の弱体化、ヴェネツィア共和国・クロアチア王国、ハンガリー王国といった近隣勢力との戦いに特徴づけられる[4]。

南スラヴ人(多くがクロアチア人)が7世紀にスパラトゥム一帯へ移住してきた。後背地とアドリア海諸島は数でクロアチア人が優勢であり、彼らはかつてのローマ都市にも影響を及ぼし始めた。初期の中世クロアチア国家(のちにクロアチア王国へと発展する)は、シベニクのような近隣の沿岸都市に建国された。そして後背地の大多数のクロアチア人国家に取り巻かれた。数世紀に渡りスパラトゥムはますますクロアチアの特徴を増した。これは市内と周辺にある教会建築に見られる。市内のローマ人人口は、次第に周辺のクロアチア人と混ざり合うようになった。

アドリア海北部のヴェネツィア共和国がダルマチア地方に影響を及ぼし始めたのは、10世紀からであった。彼らは成長する経済力をもとに沿岸諸島や沿岸都市を次々と獲得していった。数十年の間にスプリトも、同時にクロアチア国家とハンガリー国家が衰えたために、ヴェネツィアの影響下に入った。

東ローマ帝国が衰退したことから、クロアチア王国が事実上のスプリトの宗主国となり、国家の封建的特性のため顕著な自治権を授けられた。1102年、クロアチア王国はハンガリー王カールマーン1世によって、ハンガリー王国との同君連合を強いられた。しかしスプリトは高度な自治を保ち続け、市独自の通貨と同様に特権を授けられた。

ヴェネツィアとオーストリア支配時代
神聖ローマ皇帝ジギスムントとナポリ王家であるアンジュー家との間のハンガリー内戦が20年続く間、勢いを失ったラディズラーオ1世はダルマチアにおける自身の権利を、ほんの100,000ダカットでヴェネツィア共和国へ売り渡した。1420年にさらに中央集権化した共和国がスプリトを掌握、ヴェネツィア支配はその後377年続いた[5]。当時の人口はスラヴ語に属するクロアチア語話者が多かったが、公用語はイタリア語だった(トスカーナ方言とヴェネツィア方言の混合)。スプリトの自治権は減らされた。最高権力者は常にヴェネツィア生まれの人間が務めた。

このような自治を押さえつけられた状態にもかかわらず、スプリトはまもなく衆目をひく港湾都市に発展していった。スプリトが、近郊のクリス水道を通ってオスマン帝国が押さえる内地へと向かう重要な通商路上にあったからである。同様に文化も華開き、クロアチア人古典作家マルコ・マルリッチ(en:Marko Marulić)を生んだ。マルリッチの代表作『ユディタ』(en:Judita、1501年)は、スプリトで書かれ、1521年に出版された。スプリトは最初のクロアチア文学の近代作品が生み出されたのである。なお、文化活動の進化と達成とを成し遂げた作品は、主として貴族のために書かれたことが知られる。ヴェネツィア支配者が教育・医学施設に関心を見せたことから、スプリトの識字率はずば抜けて高かった。スプリトは、1797年のカンポ・フォルミオ条約でヴェネツィアが没落するまで支配を受けた。短期間のナポレオン支配の後(1806年-1813年)、ウィーン会議によってスプリトはオーストリア帝国に割り当てられた。この時代に市内への広範囲な投資が着手され、新しい通りがつくられて古代の要塞の一部が取り除かれた[6]。

オーストリア帝国時代のスプリト地域とダルマチア王国は、分離された行政単位であった。ナショナル・ロマンティシズムの結果である1848年革命の後、2つの派閥が現れた。一つは人民党に率いられた親クロアチアの連合派(のちにプンタリと呼ばれる)、そして幾分か小さな権利党であった。どちらもハンガリーの行政監督下にあったクロアチア=スラヴォニアとダルマチアの連合を主張していた。この派閥はスプリトでより強く、本部を置いていた。もう一つの派閥は、親イタリアの自治主義派(未回収のイタリア派として知られる)で、彼らの政治的目標は、イタリア王国との政治的連合のもとオーストリア=ハンガリー帝国内での自治権を修正することであった。スプリトでの政治的同盟は時間がかかった。当初、連合派と自治主義派は互いに提携してウィーンの中央集権主義に対抗していた。しばらくして民族的な疑問が突出したことで2つの派閥は袂を分かった。しかしオーストリア支配下で、スプリトはだいたいに置いて沈滞した状態にあったと言われている。1848年のヨーロッパの大きな地殻変動はスプリトにおいて起きなかった。反乱も起きなかった。

2009年02月24日

光学文字認識

光学文字認識(こうがくもじにんしき、Optical Character Recognition)は、活字の文書の画像(通常イメージスキャナーで取り込まれる)をコンピュータが編集できる形式(文字コードの列)に変換するソフトウェアである。一般にOCRと略記される。OCRは、人工知能やマシンビジョンの研究分野として始まった。研究は続けられているが、OCRの中心はその実装と応用に移っている。

(鏡やレンズといった光学技術を使った)光学文字認識と(スキャナーとアルゴリズムによる)デジタル文字認識は本来別の領域と考えられていた。光学技術として生き残った部分が非常に少ないため、光学文字認識という言葉は現在ではデジタル文字認識を含むものとみなされている。
フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール

初期のシステムは特定の書体を読むための「トレーニング」が必要であった(事前にその書体のサンプルを読ませることを意味する)。現在では、ほとんどの書体を高い識字率で変換することが可能である。いくつかのシステムでは読み込まれた画像からそれとほぼ同じになるようフォーマットされた出力(例えばワードプロセッサのファイルのようなもの)を生成することが可能であり、中には画像などの文書以外の部分が含まれていても正しく認識するものもある。

1950年、AFSA(アメリカ国家安全保障局の前身)の暗号解読者デビッド・シェパードは、日本のパープル暗号を解読したことで知られるフランク・ロウレットの依頼により、Dr.ルイス・トーデラと共に局の手続きの自動化の勧告案作成に取り組んだ。その中には印刷された文書をコンピュータが処理できる形式に変換する問題も含まれていた。シェパードはそのようなことをする機械 "Gismo" を作成することを決め、友人のハーヴェイ・クックと共に自宅で夜や週末を利用して試作に取り組んだ。彼が特許(米国特許番号 2,663,758)を取得後、このことが1951年4月27日付けの Washington Daily News と1953年12月26日付けの New York Times に掲載された。シェパードはその後 Intelligent Machines Research Corporation (IMR) を設立し、世界初のいくつかの商用OCRシステムを出荷した。Gismo も IMR のシステムも単純な文字マッチングではない画像解析をしていて、いくつかの書体を認識することができた。Gismo は画像中の文字の位置を正確に合わせる必要があったが、IMRシステムではスキャン領域のどこの文字であっても認識でき、実用に耐えるものであった。最初の商用システムは1955年にリーダーズ・ダイジェスト社に納入された。このシステムは後にスミソニアン博物館に無償で提供され展示されている。2台目のシステムはスタンダード・オイルがカリフォルニア州でクレジットカードの文字を読み取るために使い、他の石油会社もこれに追随した。IMRが1950年代後半に販売した他のシステムとしては電話会社の請求書読み取り装置やアメリカ空軍のテレタイプ用ページスキャナーなどがある。IBMなどは後にシェパードからOCRのライセンス供与を受けている。

アメリカの郵便局も1965年から発明家ジェイコブ・レインボーの開発した技術を元にしてOCRマシンを使っている。カナダの郵便局は1971年からOCRを使用している。OCRは受取人の名前と住所を読み取ってソート(分類)するために使われる。そして郵便番号に基づいたバーコードを封筒に印刷する。その後手紙はバーコードにしたがって細かくソートをする。バーコードが宛名とかぶる可能性があるため(基本的に宛名や住所はどこに書いても良い)、バーコードは紫外線ライトで見える特殊なインクを使用している。このインクは通常の光ではオレンジ色に見える。

なお、日本では漢字の読み取りが難しいため、1968年7月1日に郵便番号が導入され、手書きの数字である郵便番号をOCRシステムで読み取ってソートしていた。1998年に郵便番号の7桁化がなされてからはOCRで読み取った際にアメリカのようにバーコード(ただしこちらは透明なインクを使用)を印刷するようになった。

OCR技術の状況
ラテン文字の活字文書の正確な認識はほとんど解決済みの問題であり、識字率(文字を正しく認識する確率)は99%を越えているが、間違いの許されない状況では人間が結果を確認する必要がある。手書き文字認識や文字数の多い言語の文字認識ではまだ研究の余地がある。

手書き文字認識システムは近年、商用で成功している分野である。この技術はPalm OSなどが動作する携帯情報端末で入力手段として採用された。アップル・ニュートンがこの技術の先駆者である。これらの機器では筆順や速度や線の方向が入力時に分かるので比較的認識が容易である。また、ユーザー側も徐々に認識されやすい文字を書くようにトレーニングされるという面もある。

一方、紙に書かれた手書き文字を認識するソフトウェアには上記の利点が無いため、識字率はいまだ十分とは言えない。きれいに書かれた手書き文字でも識字率は80%から90%であり、1ページにつき数十個の認識不能文字が出現することになる。これは非常に限られた分野でしか実用化できないレベルである。

筆記体文書の認識は研究が盛んであるが、識字率はさらに低い。筆記体の文字認識の識字率を高めるには、文脈や文法の情報を使わなければならない。例えば、辞書の単語を認識するのは、手書き原稿の個々の文字を認識するよりも簡単である。小切手に書かれた数字の列は小さな辞書を使えばいいので識字率を上げることができる。スキャンしている文書の言語の文法に関する知識があれば、単語が名詞なのか動詞なのかを判別することが可能となり識字率を上げることができる。手書き文字の形だけでは正確な認識(一般に98%以上)は不可能といってよい。

コンピュータと人間にとって特に難しい問題は、例えば古い教会の洗礼と結婚の記録である(名前が列挙してある)。これらは経年変化で劣化しているうえ、現代では使われなくなった非常に珍しいスペルが使われていたりする。コンピュータの画像処理技術を使って人間がアルキメデス・パリンプセストや死海文書のような非常に解読が困難な文書を読むことが試みられている。このような人間とコンピュータの共同作業は興味深い研究領域と言えよう。

一般に、より複雑な認識問題にはニューラルネットワークを使うことが多く、非線形な変形でも線形な変形でもよく機能する

2009年02月08日

氷点週刊

『氷点週刊』(冰点周刊、ひょうてんしゅうかん)は1995年に創刊された中国共産主義青年団中央委員会の機関紙中国青年報の付属週刊紙(水曜日刊行)である。創刊以来2006年2月までの編集長(主?)は李大同。停刊後の後任は陳小川。
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2006年1月11日の574号に掲載された中山大学の袁偉時(袁??)教授の論文「?代化与?史教科?」(現代化と歴史教科書)で示された義和団事変に関する歴史認識が中国共産党中央委員会宣伝部の意に反していたため1月24日停刊を命じられ、3月1日に復刊。

氷点は最初『氷点新聞』として1995年1月6日刊行。毎週水曜日に発行され、特定の時事についての調査報道、言論、社会と民衆との関係についての論評等の内容により、読者に評価されていた。現代中国の言論自由化の先駈けとして評価され世界各国に配信された。

1998年 時事論評欄「氷点時評」連載開始。
1999年11月『青年話題』に改版、氷点時評欄は留保。特定話題について長編の『氷点週刊』始まる。
2004年6月『氷点週刊』は文化、科学、人物など紙面を増やした。
2006年1月24日 停刊命令。
2006年3月1日 復刊(編集長交代)。
氷点新聞創刊年には中国青年報の読評で「私の一番好きな専門紙」に選ばれた。創刊2年目には「中国新聞名コラム賞」に選出された。2005年にも氷点時評が「中国新聞名コラム賞」に選出された。

氷点では多々の掲載が話題になった。

1995年5月9日掲載「喬安山的故事」
「1996年映画化 離開雷鋒的日子 雷鋒は中国人民解放軍の模範的兵士(1963年,1973年,1976年,1977年,1989年同士賞賛キャンペーン)1940年貧農に生まれ1960年入党1962年8月トラック事故で殉職したが、同僚の喬安山は自身の過失として社会に貢献的に生きてきたが、市場経済という波の中で不運にあう。」という内容

鄧小平による経済開放政策によって世代間のギャップ、経済的不公平が生まれてきたが、革命的社会奉仕との矛盾についてある一人の老人史をとおして問いかける内容を掲載した。翌年映画化され全中国て上映された。

1999年4月13日掲載「東史郎看 我所認識的鬼子兵」
1999年4月10日に上演された新劇を東史郎が観覧したことに関連する記事。「東史郎の略歴と、東の発言、1審、2審敗訴、東京高裁最終審中である。」という内容。感情的な記事でなく簡素にまとめられた時事報。

2005年6月1日掲載 特別稿574期「平型関戦役與平型関大捷」上海交通大学徐臨江副教授
中国共産党正史に対して現代中国メディアとして初めて異議を報道した。

「中国共産党の軍である八路軍が1937年に日本軍に対して初勝利をしたという戦闘について、異議を唱えるため詳細な事項を発表し、結びとして 戦時中は歴史記述が戦争の制約を受けないことは有得ないことは理解できる、しかし戦後70年経過し、私たちはより広い視点と、さらに歴史を全面的に探求すべきだ、更に理性の観点で歴史を評価しよう。」という内容

日本に初勝利をしたこの戦闘は中国の学校で勉強し誰もが知っていることだが、この戦闘について各隊の状況を細かく分析し勝ったのかを問うた。

2005年5月25日掲載「你可能不知道的台湾」台湾作家 龍應台
「大陸に中国国民党連戦主席と台湾親民党宋楚瑜主席がそれぞれ訪問団を伴って来た、台湾海峡両岸の経済/文化交流がいっそう拡大するため大陸側も台湾を理解しなくてはならない。そのため台湾の作家龍應台氏に特別寄稿を依頼し報道する。(編集部)」 「台北の国父記念館で中共の革命的模範劇 紅灯記 が公演された。 この京劇には 中国共産党 の文字が現れる...から始まって、国民党に従い来た中国人、台湾人、1950年の戒厳令、日本の統治、国家権力と個人の関係、教改野火集の発刊20周年などにふれ、台湾が価値観の多元化へ、権威から自由化へと如何に進んできたのか」を寄稿している。

台湾とはどういう国なのかを紹介する内容となっているが、読者にとっては現代の社会矛盾について問う内容にうつる文となっている。現代台湾がいかにして自由・公平というものを勝ち取っていったかという歴史を紹介する内容になっている。

2005年12月7日掲載「我心中的耀邦」元共産党政治局常務委員 胡啓立
胡耀邦元総書記の17回忌の紀念として掲載されたため、多くのメディアに配信された。胡啓立が上司であった故人を回想して寄稿した長文。「総書記による毛沢東批判」について記述があったことから、論議となる。

停刊事件
中でも特別稿574期「現代化と歴史教科書」(2006年1月11日中山大学袁偉時教授)が多くの反響を呼んだ。 「現在中国国内で子供たちの使っている歴史教科書について、その内容を見ていまだに"狼の乳を飲んで育っている"事に驚愕した…」という冒頭の書き出しから始って、円明園事件について「清朝の愛国英雄談ではなく、英仏軍再来による莫大な賠償金請求と北京占拠を招いた清朝皇帝の愚昧な大罪である」と指摘。義和団事件について「8ヶ国連合軍の侵略に抵抗した愛国行動ではなく、北京周辺での殺人、放火、略奪の限りを尽くした非人道的・非文明的集団」と指摘。「現在の歴史教科はあまりにも盲目的な愛国心教育である。日本では一部の歴史教科書に矛盾のある記述が有るが、一方のわが国教科書は…」という内容。対日デモが盛んに行われている折の掲載であった為、休刊命令が出るきっかけとなった。

「狼の乳を飲んで育つ」は1979年5月に北京で開催された第一回全国五四運動学術討論会で中国共産党鄧力群中央宣伝部長が張志新の悲しい境遇について講演しその中で「同士、我々は狼の乳を飲んで育ったのだ」と叫んだ事に由来する。「現代中国の3大災難(右派弾圧、大躍進政策、文化大革命)という人々の悲しみの原因が何であったか、ということを20年前に悟ったのに、いまだに”狼の乳を飲んで育っている”事に驚愕」という内容。

当特別稿は、その冒頭でも触れられているが、「歴史の真実を後代の青少年に伝える義務があるという」信念の元に、現代中国の教科書で愛国的英雄として称えているいくつかの近代史についての考察を公開した。なお、歴史的に周辺地域の住居を焼き払い物資を奪う行為は、近代以前の戦闘では当然行う手段でもあった。

2009年01月23日

燻製(くんせい)

燻製(くんせい)とは、食材を燻煙(後述)することで保存性を高めると共に特有の風味を付加した保存食のこと。燻煙により煙中の殺菌成分が食品に浸透すると同時に、長時間の燻煙によって食品の水分量が減少することで起きる水分活性の低下により保存性が高まる。また、下処理として塩水に漬けられる場合が多く、これによる脱水・加塩も保存性の向上に寄与している。燻煙の前には一般的に乾燥処理を行う場合が多い。

元々は傷み易い食材を長期間保存可能な状態に加工するための技術であるが、保存技術の発達した現代ではその意味合いは失われ、普段と違う食感や味わいを楽しむためのものと変化しつつある。日本に限らず、様々な国で様々な燻製が作られているが、日本においてもっとも一般的なものはかつお節であろう。
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燻煙の種類
燻煙(くんえん)とは、香りの良いサクラなどの木材を高温に熱した時に出る煙を食材に当てて風味付けをすると同時に、煙に含まれる殺菌・防腐成分を食材に浸透させる食品加工技法のことである。木材を完全燃焼させるとあまり煙が出ないので、意図的に不完全燃焼の環境を作り多量の煙が出るように工夫される。直接木材に点火し燃やす方法と、他の熱源で木材を加熱して煙を出す方法とがある。

燻煙のことを「燻製にする」いうこともあるが、燻製とは燻煙によって加工された食品を指す言葉であり、燻製に加工する技術は燻煙と呼ぶのが正しい。燻煙法は加工温度の違いにより3分類され、加工温度の高いものから熱燻、温燻、冷燻と呼ばれる。

熱燻
摂氏80度以上の高温の煙でいぶす方法で、燻煙時に食材が加熱調理されることになる。細かな温度管理も不要で、最も手軽に出来る簡易燻煙法といえる。燻煙時間は10?60分程度である。簡易燻煙法であるため、食品の保存には向かない。
材料?アーモンド
温燻
最も一般的な燻煙法で、摂氏30?60度ほどの煙でいぶす。燻煙時間は、数時間から1日程度である。一般に燻製という場合は、温燻を指すと考えてよい。最も保存性が高い燻煙法で、保存食という本来的な意味での燻製を作ることが出来る。代表的な製品にベーコン、スモーク・ジャーキーがある。
材料?鶏肉、魚介類
冷燻
摂氏15?30度ほどの煙でいぶす方法。木材は高温に加熱しなければ煙を出さず、出た煙も当然高温である。冷燻の場合はこの煙を冷やして食材をいぶさなければならないので、大掛かりな設備が必要となる。また、細かな温度管理が必要で、燻煙時間も1?4週間程度と桁外れに長く、素人が製造するのは不可能に近い。煙を効率的に冷やすためと、生ものを長期にわたって加工しなければならない制約から、製造は気温の低い冬場などに限られる。代表的な製品に生ハムやスモークサーモンなどがある。
材料?タラコ、プロセスチーズ
その他
燻製液(いわゆる木酢液)に食品を漬けてその後、乾燥させる液体燻製という手法が食品加工業界では多用されている。木酢液は市販もされているが、ほとんどは食用ではないため注意が必要。食品用に精製されていない木酢液には発がん性物質(タール分)も含まれているので、絶対に食品には利用しないこと。食用に精製されたものは燻製液または燻液などの名称で販売されており、木酢液の名称で市販されているものは食用には不適なものと考えたほうが良い。

燻煙に必要な道具
燻製窯(スモーカー)
スモークチップから出る熱煙を閉じ込め、材料をいぶす為の道具。本格的なものは石や煉瓦で造られるが、簡易的なものはドラム缶やペール缶、一斗缶、ダンボールなどで作られ、市販もされている。
スモークチップ(スモークチップ)
木を砕片に加工したもの。砕片を再度圧縮処理して固まりに加工した製品も市販されている。チップ化せずに、小枝や薪をそのまま利用することもある。家庭では、茶葉をスモークチップとして利用することも出来る。種類によって香りが違う。チップの種類によって出来具合がほぼ決定する。
使われる樹木
サクラ、ナラ、ブナ、ハンノキ、シナノキ、カシワ、クルミなど
熱源
電熱器など。直接燃焼させる種類のスモークチップバーの場合には不要。

実際の調理法
新鮮な材料を用意する。肉、魚類、鶏卵など。
材料を塩や香辛料などを混合したピックル液・ソミュール液に漬け込む。
一度軽く洗い、乾燥させる(表面が乾くまで)。
スモーカー内部に材料を吊るし、いぶして完成。

2009年01月16日

応仁の乱の長期化

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応仁の乱の長期化は、将軍義政の気紛れと優柔不断さが最も大きな原因となったことは言うまでもない。さらに、応仁の乱は室町幕府の形骸化を引き起こし、終結から100年足らずにして室町幕府を滅亡へと追いやった。社会は下克上の風潮が大勢を占め、戦国の世の幕開けとなったのである。

守護大名・豪族の動向
応仁の乱は京都が主戦場であったが、後半になると地方へ戦線が拡大していった。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲は奥羽・関東・越後・甲斐を除くほぼ全国に広がっていった。ここでは東西両軍に参加した守護大名や豪族を列挙するが、時期によっては去就が異なる場合がある。主に応仁4年(1470年)頃の状況に照らした去就を記。

東軍

守護大名
細川勝元および細川氏一門:摂津・和泉・丹波・淡路・讃岐・阿波・土佐
畠山政長:越中・(河内)
斯波義敏・斯波持種:(尾張・越前・遠江)
京極持清:飛騨・近江半国・出雲・隠岐
赤松政則:播磨・加賀半国(備前・美作)
山名是豊:山城・備後
武田信賢・武田国信:若狭 安芸半国
今川義忠:駿河
富樫政親:加賀半国
北畠教具:伊勢半国
大友親繁:豊後・筑後
少弐頼忠:肥前・対馬(筑前)
菊池重朝:肥後
島津立久:薩摩・大隅・日向(ただし、実戦には参加していない)

豪族
小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、筒井順尊、吉川経基、吉見信頼、益田兼堯、大内教幸、小早川熈平、河野教通、相良長続など

西軍

守護大名
山名持豊および山名氏一門:但馬・因幡・伯耆・美作・播磨・備前・備中(ただし、山名是豊を除く)
畠山義就:河内(紀伊・大和)
畠山義統:能登
斯波義廉:越前・尾張・遠江
一色義直:丹後・伊勢半国
小笠原清宗:信濃
土岐成頼:美濃
六角高頼:近江半国
河野通春:伊予
大内政弘:長門・周防・豊前・筑前

豪族
吉良義藤、飛騨姉小路家、富樫幸千代、毛利豊元、武田元綱、竹原小早川氏、渋川尹繁・島津季久、一色時家など

社会の変化
応仁の乱は将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように真の実力者の身分上昇をもたらした。下克上は全国に拡散され、日本は戦国時代に向かうことになる。

残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。応仁の乱終了後も政長と義就は山城国で戦い続けていたが、度重なる戦乱に民衆は国人を中心にして団結し勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、山城国一揆を起して両派を国外に退去させた。加賀国においては、本願寺門徒が富樫政親を追った(加賀一向一揆)。これは、旧体制に属さない新勢力が歴史の表舞台に現れた瞬間であった。

旧勢力の没落と新興勢力の台頭
室町時代をつらぬくキーワードは、「旧勢力の没落と新興勢力の台頭」である。鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、生産力向上に伴い力をつけてきた国人・商人・農民などによって、その既得権益を侵食され没落の一途をたどった。

また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は3代将軍・義満と6代将軍・義教のときを除いて成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、同じように守護大名も台頭する守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。

こうした環境は当時、長子による家督権継承が完全に確立されていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった[3]。

応仁の乱後の京都復興
応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった周辺都市や地方の所領などに疎開していった。応仁の乱後の文明11年(1479年)に室町殿や内裏の造営が開始されたものの都市の荒廃による環境悪化によって疫病や火災、盗賊、一揆などの発生が頻発したこと、加えて在京していた守護大名やその家臣達(都市消費者として一定の役割を果たしていた)が領国の政情不安のために帰国したまま帰ってこなかったこともあり、京都の再建は順調とは言えなかった。また、こうした災害を理由とした改元(長享・延徳・明応)が相次いだ。

将軍義政は、義教の死後中断していた勘合貿易を宝徳3年(1451年)に復活させた。勘合貿易の復活や側近の守護大名及び幕府官僚の財政再建によって、応仁の乱前の幕府財政は比較的安定してはいた。だが、義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった。

一方で、町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられるのである[4]。また、当時町衆における法華宗受容も社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられる。

それでも明応7年(1498年)頃より京都の住民に対する地子銭徴収が次第に増加していったこと、永正5年(1508年)以後の酒屋役徴収の強化命令が幕府から出されている事からこの時期に京都の人口回復が軌道に乗り出したと考えられ、明応9年(1500年)の祇園祭の前後数年間が京都の本格的な復興期と考えられている。

脚注
^ 応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来の説である。しかし応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応維持されていたと考えられている。このため、明応の政変(明応2年(1493年))以後を戦国時代とするのが現在では有力な説の一つとなっている。
^ 家永遵嗣「軍記『応仁記』と応仁の乱」,『室町幕府将軍権力の研究』
^ 男子長子による家督相続は豊臣秀吉の天下統一以降に制度化したもので、江戸幕藩体制の中で確立し明治の旧民法で法制化され戦後の民法改正まで継続した。
^ また室町幕府も明応9年(1500年)をはじめ、以後の祇園祭に度々介入して主導権の回復を図り実際に戦国時代初頭には幕府の命令による祇園祭の延期や年2度開催が度々行われた。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、天文2年(1533年)の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられている。